ソン・ウォンピョン 著
矢島 暁子 訳
この作品を書いてくださったこと。
日本語に訳してくださったこと。
本として出版してくださったこと。
すべてに、ありがとうございます!!!
「アーモンド」のユンジェは、「感じる」がわからない。
わからないことがなんなのかを、ユンジェはわかっている。
わからないことを、わかりたい。
だから、わかろうとする。
わかろうとしつづける。
そういう物語なのだと思いました。
おかげさまで、「座標」というか「ピント」というか、そんなものが「あう」「かさなる」した気がします。
ぼやぁ~…としているのが晴れつつあって。
いろんなものがブレまくっていたけれど、ようやく「わく」「はじっこ」「境界線」がみえてきた、みたいな感じ、かもしれません。
さて、「共感」と「愛」への問いかけがありましたので、わたしなりに考えてみます。
「共」とは
「両手で物を捧げ持つ」⇨「そなえる」「ともにする」
「感」とは
「祈りに対して神の心が動く、応える」⇨「おもうはふるえる ふるえてもどる」
とすると、
「共感」とは
誰かが感じたことを、まっすぐそのまま受け取って、自身も同じように感じること。
ともに、ふるえること。共鳴する、みたいな。
とするならば、「感じる」とは一体なんなのかを、自分が「知っている」状態にあれば、誰かが感じたことに「共感する」ことができる、ということだと思います。
ユンジェは「感じる」のがむずかしい。
だから、まず「知る」を求めた。
赤ちゃんがいろんなことを吸収するように。
なんの価値観もない状態で「知る」ことを続けた。
「知る」が、「知っている」になるまで。
そうして、「知っている」になったとき、
自分は
何を経験してきたのか
何を感じたのか
何を思ったのか
何を考えたのか
これらを自分なりの方法(言葉、態度、歌、絵など)であらわすことができる。
この状態であることが、「共感する」ためには必要なのだと思います。
そして「愛」。
AIさんによると、「人がゆっくり歩きながら後ろを振り返ろうとする心情」とのこと。
わたしは、今の時点では、こう思います。
① 何かの現象に出会う。
② 何かの衝撃、刺激を受ける。
③ それを表現したい、となったときに「絵」「歌」「言葉」などに置き換える。
「愛」とは
① ⇨ ② の「⇨」の部分。
「ない」から「ある」になること。
「ある」から「ない」になること。
かわること。
とどまらないこと。
「心」とは
② ➡ ③ の「➡」の部分。
「ある」を「ある」ままにしておきたい。
「ある」が「ない」になる前にとどめておきたい。
「刹那」「一瞬」「またたき」「美しい」を「永遠」にしたい、という欲求のこと。
「愛」を続けていくなかに「心」がうまれる。
ん?
「心」があるからこそ、「うつくしい」とおもうからこそ、人だけに時間感覚(過去、現在、未来)が存在する、っていうことなのかな?