わかったぁぁああ!!
第2回「平方根・無理数」の回で、
数の種類を図式化したやつ。
「自然数」を中心に、
その外側に「整数」、
さらの外側に「有理数」、「無理数」と展開されていくやつ。
「人体」=「1」という
「体感(実感)」があれば「わかる」になるんだ!
やったぁああああ!!!
ようやっと「1」に到達した!!
ってことは、
「人体(1=ひとまとまり)」の外側で展開されているものは、
わたしの「なか」では「さかさ」で展開されている、ってことだ。
よしよし!
それがわかればいけるぜ!!
「なかみ」が「ばらばら」である場合、
やろうと思えばどこまでも「ばらばら」にできてしまうので、
納得するまでやったら切り上げなさいね~、だ。
と、すると、
わたしのフレームワーク「なかみ」を
「Ø or ∞」⇔「0」⇔「1」
と定義すると、
「そと」は、
「Ø」⇔「0」⇔「∞」
であることが「のぞましい」、ってことかな?
でも、いま現在は
「0」⇔「1」⇔「∞」
となっていて、
「0」⇔「1」で、
「Ø」ではないから
「せまい」になっている、ってことかな?
ざっくり言うと、
生物としての存在感が希薄になってしまい、
所有物にふりまわされやすい状態
みたいな感じで、
現地生物として、
「体感」からの「実感」を伴わないと、
あらゆる活動を「よそさま」に「操作(洗脳)」されたとしても
「きづく」がしにくい
ってことかな?
「0」を「Ø」にするには、
「死」を、
「体感」⇨「実感」として「経験」することが必要。
実際に「死」を「身近」にさせてくれるのが、
「お年寄り」だから、
年配者というのは「とうとい」、ってことかな。
現在は、核家族化によって、
「お年寄り」との同居率が減っている。
「同居(長時間接する)」することによって
「日常」の一部となった「お年寄り」が亡くなることでの「喪失感」。
わたしの場合は、父が亡くなったとき、かな。
父は病院で亡くなったのだけど、
本人は「家で死にたい」と言っていた。
それを叶えることができなかったことへの
「罪悪感」がずっとあった、んだなぁ。
いま、わかった。
わたしに「死」を「おしえる」してくれたのは、
祖父母、父、一緒に遊んだ近所の女の子、
そして、流産した我が子。3人。
1人目だけが、
わたしに「存在」を「体感」させてくれた。
あの、はっきりと感じられた「存在」が
スゥ……と「よわい」になっていって、
わたしは夫に、
「赤ちゃんがきえちゃう!」と訴えて、
病院に行ったけれど、
「もどる」することなく。
いま、ようやくわかった。
我が子は、わたしに
「いきる(うまれる/まとまる)」と
「しぬ(ばらばらになる)」を
教えてくれたんだな、と。
これを書いているあいだ、
ずっと流れている涙は、
たくさんの「おもい」が「あふれる」している、
ということなんだな、と思いました。