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よんで、あじわって、かく。

Eテレ『3か月でマスターする数学』

わかったぁぁああ!!

 

第2回「平方根・無理数」の回で、

数の種類を図式化したやつ。

 

「自然数」を中心に、

その外側に「整数」、

さらの外側に「有理数」、「無理数」と展開されていくやつ。

 

「人体」=「1」という

「体感(実感)」があれば「わかる」になるんだ!

 

 

やったぁああああ!!!

ようやっと「1」に到達した!!

 

 

ってことは、

「人体(1=ひとまとまり)」の外側で展開されているものは、

わたしの「なか」では「さかさ」で展開されている、ってことだ。

 

よしよし!

それがわかればいけるぜ!!

 

 

「なかみ」が「ばらばら」である場合、

やろうと思えばどこまでも「ばらばら」にできてしまうので、

納得するまでやったら切り上げなさいね~、だ。

 

 

 

と、すると、

わたしのフレームワーク「なかみ」を

 

「Ø or ∞」⇔「0」⇔「1」

 

と定義すると、

「そと」は、

 

「Ø」⇔「0」⇔「∞」

 

であることが「のぞましい」、ってことかな?

 

 

 

でも、いま現在は

 

「0」⇔「1」⇔「∞」

 

となっていて、

「0」⇔「1」で、

「Ø」ではないから

「せまい」になっている、ってことかな?

 

 

 

ざっくり言うと、

 

生物としての存在感が希薄になってしまい、

所有物にふりまわされやすい状態

 

みたいな感じで、

 

現地生物として、

「体感」からの「実感」を伴わないと、

あらゆる活動を「よそさま」に「操作(洗脳)」されたとしても

「きづく」がしにくい

 

ってことかな?

 

 

 

「0」を「Ø」にするには、

「死」を、

「体感」⇨「実感」として「経験」することが必要。

 

実際に「死」を「身近」にさせてくれるのが、

「お年寄り」だから、

年配者というのは「とうとい」、ってことかな。

 

 

現在は、核家族化によって、

「お年寄り」との同居率が減っている。

 

「同居(長時間接する)」することによって

「日常」の一部となった「お年寄り」が亡くなることでの「喪失感」。

 

わたしの場合は、父が亡くなったとき、かな。

父は病院で亡くなったのだけど、

本人は「家で死にたい」と言っていた。

 

それを叶えることができなかったことへの

「罪悪感」がずっとあった、んだなぁ。

いま、わかった。

 

 

わたしに「死」を「おしえる」してくれたのは、

祖父母、父、一緒に遊んだ近所の女の子、

そして、流産した我が子。3人。

 

1人目だけが、

わたしに「存在」を「体感」させてくれた。

あの、はっきりと感じられた「存在」が

スゥ……と「よわい」になっていって、

 

わたしは夫に、

「赤ちゃんがきえちゃう!」と訴えて、

病院に行ったけれど、

「もどる」することなく。

 

 

いま、ようやくわかった。

 

我が子は、わたしに

 

「いきる(うまれる/まとまる)」と

「しぬ(ばらばらになる)」を

 

教えてくれたんだな、と。

 

 

これを書いているあいだ、

ずっと流れている涙は、

たくさんの「おもい」が「あふれる」している、

ということなんだな、と思いました。