、 、 。

よんで、あじわって、かく。

『ジェニーのなかの400人』②

ジュディス・スペンサー 著

小林 宏明 訳

 

ジェニーとすべての人格たちと、

彼女たちに関わったすべての方々のおかげで

だいたいのことがわかりました。

 

田舎では、専門医もセラピストもいませんし、

そもそもお金がたくさんあるわけではないので、

こうやって本で「臨床」「治療」などをみせていただけるのは

とてもありがたいことです。

 

というわけで、「わたし」とは、

名前や容姿などを認知する前、

「破片の堆積場」みたいな状態だったのが、

いまようやく「ものごころがつく」という状態になった、

みたいな感じ、かな?

 

 

でもって、

 

「聖書」

鴨居玲さんの『肖像』」

ドグラ・マグラ

 

が、浮かんだ。

 

 

えーと、

 

 

大脳にとって、

主に目からの情報が「優位」になりやすい。

 

そのため、大脳と視覚野のリンクが

強くなりすぎて「かたよる」の状態になると、

その他の感覚野がおろそかになって、

視覚以外の感覚器官からの情報を無視しやすくなる。

 

そうすると、体全体のバランスがとりにくくなって

連携も取りにくく、結果、免疫機能が落ちやすい。

 

というわけで、視覚以外の感覚器官、

特に「皮膚感覚」を意識することをオススメします。

 

 

みたいな感じ、かな?

 

 

『ジェニーのなかの400人』

ジュディス・スペンサー 著

小林 宏明 訳

 

この本でいうところの「多重人格障害(MPD)」は、

現在は「解離性同一性障害(DID)」と呼ばれている、と。

 

まえがきで、ジュディスさんが書いてました。

ジェニーと知り合いになったころ、彼女は自分の物語が書れることを望んでいる理由をだれよりもうまく語っていた。「まだ幼いころ、ママはわたしの体を傷つけたけれど、その傷口を上手に隠していたし、それはすぐになおったから、だれひとりわたしの傷あとを見ることがなかったの。本に書かれれば、その傷あとが世の中のみんなに見えるようになるわ」と彼女は言った。

 

 

ジェニーの言葉をまねっこしてみると、

 

 

まだおさないころ、

ハハは、わたしのなかの「わたし」を

「こわす」しつづけたけれど、

みていないし、みようとしなかった。

きづきもしなかった。

 

「かがみ」が「ない」なの。

 

だから、

「わたし」は「こわい」がわからず、

「こわす」されていることもわからず、

それが「いたい」のだともわからず、

ただただ、バラバラになっていった。

 

 

ここが、わたしの「すきとおる」っぽいです。

 

 

鬼滅の刃』でいうところの

"透き通る世界"かなぁ。

 

わたしも炭治郎みたいに

がんばれたよ!!

 

 

『聖書』

いまのところの「印象」としては、

「聖書」というのは、

 

その地に生きる男性(XY体)が受けた各種の啓示(教え)

 

みたいな感じ、かなぁ。

 

 

旧約聖書 :「脳」が、

      「遺伝子」から

      「コトバ」をいただく(無意識領域からの指示)

 

新約聖書 :「脳」が、

      「細胞」から

      「ことば」をいただく(無意識と意識の狭間)

 

クルアーン:「脳」が、

      「人体」から

      「言葉」をいただく(無意識を意識する)

 

みたいな?

 

 

ということは、

これで「半分」ってことかなぁ。

 

とすると、もう「半分」、

女性(XX体)における

「コトバ」「ことば」「言葉」があれば

いいんじゃない? みたいな?

 

うーん……

 

わたしのなかでは、

 

アナと雪の女王2」

「バービー」

アナと雪の女王

 

かなぁ?

 

 

これらの世界観をざっくり「西洋」とすると、

 

「西洋のXY体」=「B(あお)」

「西洋のXX体」=「G(みどり)」

 

みたいな感じがするので、

残る「R(あか)」は?

 

うーん……

ゾロアスター」かなぁ?

 

 

「RGB」がそろうと、

CMYK」が「解消」される、みたいな?

 

 

あ、ちがうちがう。

 

「RGB」⇨「しろ」

CMYK」⇨「くろ」

 

になって、「陰陽」のイメージにつながるから、

ここで「中国」≒「漢字」に到達する、のかな?

 

 

あー、わかった。

 

わたしのなかでは、

 

「西洋」=「カタカナ」

「東洋」=「漢字」

「日本」=「ひらがな」

 

となっていて、

この「みっつ」を「つなげる」したい、んだな?

 

これでやっと、

「日本」と定義されている国内で、

「日本語」という名の「言語」として

「ただしい順序」で「言葉」を使える、ってことかな?

 

 

『クルアーン やさしい和訳』

水谷 周 訳著

杉本 恭一郎 訳補完

 

ざっくり言うと、「アッラー」とは、

日本でいうところの「おかげさま」だと思いました。

 

 

日本は水が豊富で、

四季があり、山野や森林が広がっている。

 

動植物、微生物、菌類などの

「いきる(うごく)」しているものの存在が、

肌で感じられるほどに豊かな土地。

 

なので、ただ、そこにいるだけで

「いろんなものにかこまれてるな~」

と感じられる。

 

そうすると、

 

「いろいろと つながっていて、

いろんな ものが メグリ めぐる していて、

そのなかに、わたしも いるんだな~。

ていうか、わたしのなかも、いろいろつながって

メグリ めぐる してるじゃん」

 

でもって、

 

「だったら、わたしも いろいろと つながって、

そこから うかんできた あれこれを

めぐらせることが できてるんじゃない?」

 

みたいな?

 

 

 

わたしとしては、いま、気になった部分は「施し」。

 

たまたま手にした「もの」を、

ひとりじめしない。

自分に必要な分だけを取って、

残りを困っている人に「わたす(だす)」。

そうすると、

相手との「つながり」がうまれる。

と同時に、

自分は「てばなす」をすることで、

新たな「もの」が「めぐる(はいる)」する。

 

っていうサイクルがのぞましい、ってことかと。

 

 

 

クルアーンにある「悪魔」というのは、

自分自身と向き合うことなく、

「自分は悪くない。だから、悪いのは〇〇だ」

「自分は正しい。だから、正しくないのは〇〇だ」

とかをし続けること、かな?

 

「正しい」とか「悪い」とか、

どちらも「かたよる」している状態で、

ちっとも「カラフル」じゃないじゃん、みたいな?

 

 

 

そういえば以前ニュースで、

ユダヤ、キリスト、イスラムの教徒が集まれる場所、が

「祈りと学びの家」 がドイツにできたとか。

 

ゴールデンカムイのアシㇼパさんが言ってた

「ちょっとちがって、ちょっとにている」を

みんなで体感しあう、みたいな感じかなぁ。

なんか「あかるい」っぽい!

 

 

 

きのう、録画してあった

『102歳のことば~生活図画事件 最後の生き証人』

をみました。

 

「生活図画」とは、

身の回りの生活を見つめ、

ありのままの姿を描くこと、だそうです。

 

菱谷良一さんは、

学生2人が本を間に置いて話し合っている場面の絵を描いたことで、

共産主義者だと決めつけられて投獄された、とのこと。

 

いまだに治安維持法の謝罪はおろか

実態調査すらしていない。

 

菱谷さんたちは、毎年5月に国会請願をしているそうです。

今年の5月には、なんらかの動きがあるといいなぁと思います。

 

 

『だれかに、話を聞いてもらったほうがいいんじゃない?』

ロリ・ゴットリーブ 著

栗木 さつき 訳

 

スイスの高名な精神科医カール・ユングはこう言った。

「自分の魂と向き合うのを避けるためなら、

人はどれほどおかしなことでもしようとする」

 

しかし、こうも言っている。

「内面に目を向ける者は、目覚める」

 

ほんと、それな!

 

たくさんの人が残してくれた「言葉」のおかげで

「さかさ」を「なおす」、できましてん。

ありがたいことです。

 

 

 

アメリカ合衆国という名の国にお住まいの方々も、

「さかさ」で苦労していらっしゃるっぽいのかなぁ、と思いました。

 

「さかさ」とは、

体感から生じる感情よりも、

社会的立場(身分)を無意識に優先して行動してしまうこと。

 

「男」「女」「子ども」「大人」「学生」「大人」「会社員」

などの名詞の存在として扱われるうちに、

自分でもあてはめようとする習慣を身につける、というか。

 

誰かさんが発した「言葉」にくっついている

「ダレかさんがつくった設定」を、

「自分のからだでつくった設定」だと勘違いする、というか。

 

だから、

自分が実際にとった行動の理由を、

自分の言葉で説明することができない。

 

だから、

「あなた自身は、どう思いますか?」とか

「あなた自身は、どうしたいですか?」とか

社会的立場(身分)を取っ払った状態での

意見を求められると「???」になる。

 

自分が「自分の設定」ではなく、

「他人の設定」で動くと、

「誤差」が生じる。

 

この「誤差」が

精神疾患」としてあらわれる場合がある、

ということかなぁと思いました。

 

でもって、

「さかさ」状態の人などを、

「いきもの(うごくもの)」に「もどす」ための

お手伝いをするのが「セラピスト」。

 

あくまでも、「おてつだい」だけ。

スポーツでいうところの「伴走者」みたいな。

 

つまり、

「もどす(なおす)」ができるのは、自分だけ。

自分にしかできないこと。

 

なので、

ここで必要になるのが「根性」

 

「自分の脳(内面)なんだから、

自分でなんとかするぜ!!」

 

みたいな。

 

「でも、なおす間、経済活動(労働)的には

不参加となるので、そこを助けてほしいです」

ということを夫に言いたかったんだな、と

いま、わかりました。

 

共働きでなくなった当初は、夫も不安そうでした。

精神的に崩れた妻を支えようにも、

どうしたらいいかわからない、というのが

不安のなかでの一番大きい理由だったんじゃないかなぁ。

 

でも今は、

ひとり分の稼ぎで日々の暮らしはこなせてるし、

仕事から戻れば食事ができてるし、

掃除も洗濯もやってもらえてるし、

色々はなしを聞いてもらえるし、

猫たちはかわいいしで大満足、とのことです。

 

わたしは、

「やりたいように、やる」=「ひたすら読書をする」ことで、

「自分が『じぶん』を認知するにはどうすればいいか?」という課題と向き合う、みたいな感じだったのかなぁと、いまは思います。

 

 

以前のわたしは、お笑い番組をみても

何がおもしろいのかさっぱりわかりませんでした。

それがいまでは、声をあげて笑えるようになり、

夫は「よかったなぁ」と嬉しそうな目をして言ってくれます。

 

夫は、おしゃべりが好きな人。

毎日、たくさん話をしてくれるので、

そこから色々まなぶこともできました。

ようやっと「おしゃべり」ってなんなのか、わかったかも。

 

「おしゃべり」とは、友人などと気楽に、とりとめのない話をすること。

「気楽」とは、かまえないこと。「わく(かべ)」がないこと。

「とりとめ」とは、まとまりのこと。

 

つまり、

 

「おしゃべり」とは、立場や身分に関係なく、

あらゆることを話題に、なんでも話せること。

 

だからこそ、新しい視点を「きづく(発見)」しやすくなる。

かたよった視界(こりかたまった世界)が

少しずらされることによって、

新しい世界(視点)への扉があらわれやすくなる。

 

 

というわけで、来年は、

日本語(第一言語=方言)習得のために、

近所のじいちゃんばあちゃんとおしゃべりをする!

 

心理学者ジェームズ・プロチャスカの

多理論統合モデル(TTM)で言うところの、

ステージ3:準備期 を終えて

ステージ4:実行期 への移行、って感じ。

 

 

『おしまいの日』

新井 素子 著

 

「ひと」が

「いきる」しやすくするために

「ことば」をつかって

「まとまり」をつくっていって

「ひとかたまり」っぽくなる

 

のではなくて、

 

「国」が

「社会(経済)」を維持し続けるために

「言葉(言語)」を駆使して

「生産ロボット」として正常に稼働するように

「人」を洗脳し続ける

 

という、

この「さかさ」状態について、

どう思いますか?

 

 

という「問い」を投げかけているのかなぁ、と思いました。

 

 

うん、めっちゃイヤ。

そもそも「さかさ」がイヤ。

ずっと「さかさ」だったんで、

もうおなかいっぱいだから、いらんです。

 

 

 

 

「母親」

「猫」

「白い虫」

 

ってことで、同人活動していた頃を思い出しました。

 

よっしゃ!

やっとつながった。

 

過呼吸をおこしてから

約1年かけての総おさらいの旅。

一点集中突破、完了。

わたしのなかでの「FF6」、クリア。

 

ってことで、次、

わたしのなかでの「幻想水滸伝」、スタート。

 

 

 

『サイコパス 秘められた能力』

ケヴィン・ダットン 著

小林 由香利 訳

 

 

サイコパスってなんだろう? の仮説を

 

感じたことを表現するための「ものさし」が、

一般的な範囲からズレている人のこと。

 

としたのだけど、

ソシオパスのパトリックさんみたいな伝記ではなかったので、

よくわからなかった。

 

 

 

てか、おもいだした。

 

小学生のとき。

5月、かな……稲の苗を育ててるビニールハウスがあって。

窓を開閉するみたいに、開けたり閉めたりする部分があって。

そこに、なにかいたずらをしたんだった。

 

そしたら、それをみていた祖父が顔を真っ赤にして

「こらっ!!」って、どなった。

おこった祖父は、わたしにむかって、こぶしをふりあげながらちかづいてきて。

わたしは「きゃー」っていって、わらいながらはしってにげた。

 

祖父だけが、「わたし」がやったことをみて、

祖父だけが、「わたし」にむかって声をぶつけてきた。

 

 

10年ほどたって、祖父は認知症になった。

当時は「ボケた」とか「痴呆症」って言ってた。

祖父は、わたしのことだけはわかるようだった。

祖父は、いつも、おなじ歌をうたってた。

なんの歌かは知らないけど。

 

 

わたしが、ずっとずっとめざしていた「ひかり」って、

「祖父」だったんだな、と。

 

祖父は死んだのに、わたしが「しばりつける」したままで、

「しぬ」できていなかったみたい。

おじいちゃん、ごめんなさい。

 

祖父のおかげで、「クロ」に「ひかり」をあてられたから、

「いろ」がでてきた。

おじいちゃんのおかげ、ありがとう。

 

 

 

空が あおくて

風が さあぁとふいて

土から むわんとした においがのぼり

ビニールハウスが ぼんやりひかる

 

祖父の こえ

おおきな こえ

祖父の うた

おとが あがったり さがったり

 

とんで はねて

くる くるり

ぽわんと ふくらみ

とけてった